カテゴリ:言葉について( 2 )


2005年 04月 30日

このごろ

a0022830_552292.jpgこのブログの投稿文章が、下手になってますね。日本語で文章を書くにしても、上手い下手がくっきりあるものだ。なぜこれを感じるかと言えば、巧い文章を読んだ後に、自分の文章に立ち返ってみると、なんだか質ががくっと下がるからです。その分英語が上がってる、と信じて、まあしばらく読者の方々、我慢してください。

言葉の力は、そのとき読んでいる本の量と質によって決まると思う。漢文調の本を立て続けに読んだら、喋る言葉も何となく四字熟語が多くなるし、英語に触れる量が多ければ、喋るのも英語モード。シェークスピア劇を読んだら、言葉も"I speak to tho."なんて調子になるのでしょうか。実は本気になって読んだことがないので、わかりません。

私が一番好きな小説家は、開高健です。話の内容は、混沌としたものが多いけど、彼は本当に描写が巧い。匂いが立ち上ってくるような文章を書きます。「掌の中の海」という短編小説、機会があったあら読んでみてください。
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by my-salad-days | 2005-04-30 05:26 | 言葉について
2004年 08月 18日

バブルトーク

 小学生低学年の頃、毎日の宿題で、「せんせいあのね」っていう、日記のようなものを課されていたのを覚えてますか。日記の中身はなんだって良いんだけど、「せんせいあのね、今日はお庭にアロエの花が咲きました。真っ赤で大きなお花です。」という感じで日記を書き出すのです。
 つまりは綴り方の練習で、作文とまではいかないけれども、文章を書くことに慣れよう、という宿題なのです。まずは自分の日常を描いてみる、という初歩的訓練。夕食の席で、お母さんに今日一日学校で起きたことを話す、というのの逆バージョン、つまり学校で担任の先生に家で起きたことを書いて伝える、という奴ですな。これって、小学校なら全国各地でやっているのかな。

 先日齋藤孝の本を立ち読みしている中で、「『東大国語』入試問題で鍛える!齋藤孝の読むチカラ」の中に、いつの出題だったかは忘れたけれども現代文の問題で、「携帯電話の普及により、人々のお喋りの量は増えた一方、相手とのコミュニケーションのなかで相手の発言に払う注意力は低下している。つまり、各々が自分の心の中にあることをブクブクと泡のように好き勝手につぶやいているだけなのだ、云々」(筆者注;孫引き文献であり、正確な引用ではないので、表現の細かな部分には誤りあるかも)というものがありました。
 ふとわが身を省みてみれば、ついこのバブルトークをやってしまっているかもなー、と思うのです。また、他者の発言に泡を見るような気持ちで向き合っている事も、時々ある。

 個人所有のブログという装置は便利なもので、掲示板に書き込みする感覚で、持ち主が私信を貼り出す事ができる。小学生の「せんせいあのね」的日記を、大の(?)大人が無防備に晒してしまう場所にもなっちゃう。でもさ、そうやって毎日吐き出される日常って、誰のためのものなんだろうね。書き残して伝えて、意味のあるものだろうか。ただ、バブルに空気を送り込んで、さらに泡の嵩を増やしているだけではないか。

 むかし紙が貴重品だった時代には、もちろん文字の読み書きが出来る人も限られていただろうけれど、書き残される言葉には価値があったんではないか。書き残す言葉の選択はもっと厳格に、ストイックにされていただろうし。ブログという電子版のせいで、また、どことでも音をつなぐ携帯電話のおかげで、発される言葉の相対価値がさがったとしたら、哀しいですね。

 無駄に言葉を残さない、沈黙を愛する、でも発するならばセンスある表現を、というのをとりあえずこのブログの個人目標にしようかな。沈黙は金ともいいますから。メダルは取るなら金がよい。

 追記> 一方、英語をしゃべる場所で日本人は黙り込みがちで、それはつまんないよ、と留学先の現役学生の友達に言われています。「文法は少しぐらい間違っててもいいから、口開かなきゃ」と。でも、英語でもバブリーなのは嫌だよな。
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by my-salad-days | 2004-08-18 12:23 | 言葉について